写真を撮れなくなった時の処方箋(雑)
撮りたい、という気持ちは強いのに何をどう撮っていいか分からなくなって身動きが取れないような時。それでいて気持ちは先行しちゃってるから焦りを感じてしまう時。そういう時は下記の二つの処方箋を実行するようにしている。
(1)滝行コース
ひたすら何でも撮る。普段撮らないものでも、ちょっとでも気持ちが向いたら撮る。ちょっとした思い付きの撮り方でも撮る。沢山撮ったものを並べてみてから初めてどれが自分にとってお気に入りか考える。撮るときは考えない。考えるな、感じろ。何がいいか考えるのは後だ。撮れ、撮れ、撮れ。
(2)カメラを一旦置く
カメラを置いて、映画観たり歌を歌ったり皿を触ったりクリームシチュー作って食べたり猫を触ったりバッティングセンターでバットを全力で振ったりする。写真以外の展示を観に行くのもいい。
写真以外で五感を満たす。
こういう時というのはインプットが足りていないときに生じているのだと思っている。インプットがないとアウトプットできない。
(1)はインプット材料を自分で仕入れてくる。直感だけで仕入れてきたものを後で整理して、今の自分がどういうものに価値を感じているのか後から整理する。立ち尽くしているときに撮る写真もその時の写真だ。
(2)は写真以外のもので五感を刺激し、体全体でインプットしていく。こわばった体を刺激でほぐしていく。
どっちかだけでもいいけど、だいたいはどっちもやる。(2)→(1)の順番が多いかな。
記憶の輪郭とブレ
現在取り組んでいるテーマというかプロジェクトというかの一つ
人の記憶というのは曖昧なようでいて芯の部分は強い印象で残っている。単純な記憶だけでなく「夢の中で見た映像」なども近いものがあるかもしれない。そういった部分が着想の起点。
「曖昧な部分」と「本質的な部分」というようなものを表現できる手段はないかな、と色々と模索していて今も試している。最初は遊びでやってみた撮り方がとっかかりになっている。現段階でまだ写真作品として発表できるようなものではなく、よくて「習作」というようなものだ。
まだ手段として試している段階なのだが、ここから最初に挙げたテーマに引っ掛かるところまで持っていけるかどうか。しばらく模索していきたい。狙った撮り方と偶然性の両方が作用するこの撮影はとても気に入っている。
何事も放置していてはいけない
昨年の夏に外付けハードディスクが故障してしまった。
その当時、うちには4つの外付けハードディスクがあった。買った順に
(1)500MB
(2)1TB
(3)2TB
(4)4TB
壊れたのは一番新しい(4)のハードディスク。ハードディスクは壊れるものという認識はあったし、以前PCの内臓ハードディスクがクラッシュしたこともあった。が、(1)がまだ元気に動いているのに(4)が壊れることを予想できてなかった。以前、外付けハードディスク(250MB)が壊れた時は完全に動かなくなる前から「コン・・・、コン・・・」みたいなあからさまな不穏な音が聞こえてきていた。だから新しいHDDにバックアップもとれた。今回は一切前触れがなかった・・・。
そこですぐにどうにかしようとおもったのだが、HDD復旧業者に頼むと結構高い(4~6万)。ひとまず何度もアクセスを試みて内部データを破壊しないようにそっとしておこう・・・となり、うっかりそっとしておきすぎた。
結局、友人が復旧ツールを持っているとのことでつい先日新しいHDDと一緒に預けた。現在検出作業までしてくれたそうで64~85%検出したとかなんとか。21時間もかかったそうだ。マジか。そりゃ業者に頼んだら金かかるはずだわ。
1枚でも多くの写真がサルベージされることを祈ってる。
兎丸愛美・笠井爾示写真展「羊水にみる光」に感じた乾きと湿度
3月15日、最終日に観にきた
兎丸愛美さんの名前は何年か前からSNSで知っていた。正確に活動内容を把握していたわけではないけど、なんとなく気にしていた程度。そして今回の写真展にあった写真はなんとなくで感じていた印象を強めたものとなった。
写真を見た印象を一言でいうと
「芯はあるけど、無駄なものがほとんどない」
感じ。強めたいところを強めて、それ以外を排除するとこういう感じになるのかなと思った。
ミニマルな表現をした結果、モデルである兎丸さんを最大限に浮かび上がらせている。なんかふわっとした言い方で自分でもアレだなとは思うけど。
事前予想ではもっとウェットなものになっているのではないかと思ってた。以前見た「月刊・酒井若菜」みたいなイメージ。もしくは「接写」みたいな。写っているものは同じ女性モデルなのに今回の写真は妙に乾いてる印象を受ける。笠井さんでヌード写真だともっとウェットなイメージがあるのに。そして表現的にもっとウェットな印象を受けてもいいはずなのに。
会場に笠井さんがいらっしゃったのでその辺の感想をそのまま言ってみた。
「ウェットな印象も乾いた印象も両方受ける不思議な感じです。なんでそんな印象なのか理由は分からないのですけど」
と馬鹿な小学生みたいな言い方で。笠井さんは
「乾いてますよね」
と一言。やっぱりそうなんか。
今これはギャラリーがある学芸大学駅の近くのドトール(高級バージョン。コーヒーが一杯500円する!ドトールなのに!)で書いているのだけど、ギャラリーを出て30分経ってゆっくり要因を考えてみている。
要因の一つは写真の彩度の低さがあるのかもしれない。Twitterのアカウントの中でもこんなことを言っている。
あれはモノクロではなく、カラーの写真です。少ない光原の暗闇で撮っているので、色彩が抑えられていますが。RT→
— 笠井爾示 (@kasaichikashi) 2020年3月13日
暗闇の中で少ない光源で撮っているとしたら、あの肌に乗っていたノイズもそういうことなのだろうか。あれがデジタルノイズなのかフィルムノイズなのかはよく分からなかったけど(多分デジタル)
なんというか、それで毛羽立った質感が出てきて、それが乾いた印象を与えていたのかもしれない。
あと兎丸さんの表情だ。笠井さんとの個人的な距離感というよりは兎丸さんが兎丸さんのままでいて、笠井さんによる観察記録みたいな感じだった。写真集の方を見ると兎丸さんがまっすぐカメラを見据えた写真が結構多い。お互いに観察しあったものなのかもしれない。
ひとまず今日のところはそういう結論にしよう。
深夜の徘徊者、振り返る
2020年1月19~26日まで新宿三丁目BAR KingBiscuitで写真展「Night Crawler」を開いた。同時開催で石本一人旅「グッドバイ」。石本とは5年前にもこのBARで写真展を開いている。
まずこの「Night Crawler」という展示のタイトルとテーマについて。
今回の写真はすべて深夜に撮ったものだ。深夜の街を歩き、撮り、寒さにへこたれながらも撮ったものだ。
深夜の街を撮った写真はそう珍しくない。ブラッサイは1930年代の夜のパリを撮っていた。普遍的なモチーフと言ってもいい。ではなぜそのテーマを選んだのか。
一つの理由は単純に私が昔から夜が好きなことがある。中学生の頃からよふかしが大好きだった。群馬の田舎に生まれ育った私には残念ながら夜の街に繰り出すという選択肢はなかったが、何もない深夜の田舎道を歩いたり深夜ラジオを毎晩のように聞いたりするのは特別な時間だった。昼間冴えない日を送っていても、謎の万能感があった。
もう一つの理由は夜の街にいる人達が好きということだ。
使い古された言葉かもしれないけど、夜の街にいる人はどこか寂しげな人が多い。大勢の仲間と遊んでいるのならともかく、一人で街を歩いている人はなぜそこにいるのか。二人で身を寄せ合っている人はなぜ温かい室内にいないのか。
夜は暗くて優しくて包んでくれるからだと思っている。刺すようなLED光源や店の看板がどんなに光っていても、何も隠せない昼の光と違って必ず隠れられる影がある。何をしても怒られず、どんな顔をしていても隠してくれるような錯覚を与えてくれる。そんなところに人が慰めを求めているのではないかと思う。
逃避と言えば逃避だ。だけどそんな人たちに強く共感するし、寄り添う感覚を持ちたい(いや、だからといってそんな人たちを撮ることが寄り添うことになるのかどうかはちょっとアレなんだけど)。
そんな夜の万能感、優しさ、寂しさ。そういったものを詰め込んだのが今回の展示だった。私は弱い人の味方ではないけど理解者ではありたいと思っている。私も弱いからだ。
タイトルに関しては同名の映画からとった。内容は全然違うのだけどタイトルの響きがとても気に入っていて、今回の展示内容を決めたときに「これだ!」と思った。同じように漫画の「よふかしのうた」からとっても良かったなと決めて公表した後から思ったし、内容的にはこっちの方がフィットしたのだけど、まぁそれもタイミング。
展示期間中について
想定以上のお客様に来ていただいたこともあり、石本がバーテンダー業務を行いながら私が写真の説明や注文取り(人生初の経験である)を行ったりしていた。色々と不手際があったと思うのでお詫び申し上げたい。
やはり直接写真の感想を頂けるというのは本当に嬉しい。私自身久しぶりの展示ということもあり心から楽しんだ。ちょっと疲れが出た時もあったが、毎晩写真の話をして酒を飲むというのは至福の時であった。皆様に心からお礼を申し上げます。5年前の展示からは考えられないほどお客様が来てくれた。
今後は展示の予定はないが、とある写真サイトからお誘いを受けている。そこに向けて注力しつつ、また目の前にある夜の街の写真やその他の写真を撮っていく。展示がなくても写真は続く。The shoot must go on。また何らかの形で皆様に写真を見せる機会が持てることを期待してる。
フォトコンテストに出すということ
数年前からコンテスト・コンペの類に積極的に写真を出している。最初は多くの人と同じようにカメラ雑誌のコンテストから始めた。2年前は積極的にアサヒカメラに出していて、2年間で10回は出したろうか。2回に1回は入選するようになってきた。アサヒカメラの月例コンテストはカメラ雑誌の中では野心的な写真も入選しやすいと思っている。雑誌自体はおっさん~ジジイが読むような保守的な内容だが、コンテストの選考基準は割と懐が深い。そんな雑誌で4,5回入選するとやはり自信が出てくる。
とはいえ、カメラ雑誌の月例コンテストはやはりアマチュアの場だ。野球で言えば草野球だ。もっと大きなコンテストを。プロへの登竜門にもなりうるコンテストを、と昨年は求めた。「草野球は卒業だ」と言わんばかりに粋がって。エプソン/ニコン/ソニーなどのメーカー主催コンテストやLensCultureなどのコンテスト。そういったものに送っていった。結果、全敗。全く何にもかからず。
「コンテストのために写真を撮っているのか?」と聞かれたら、迷わずに「違う」と答えられる。自分の衝動であったり好奇心であったりするものを残すために写真を撮っている。そう言える。
発表の場としてはよくあるのは写真展だ。グループ展でもいいし、個展でもいい。実際私も何度か写真を発表している。ネットにアップするのと違って、わざわざ足を運んでくれたお客さんに生の感想を言ってもらえたりリアクションを見ることができる。これは何らかの発表をしたことがある人には分かると思うけど、何事にも変えられない体験だ。これを味わいたくて展示を繰り返している人もいると思う。
ただ問題もある。アマチュアの写真展は決定的に緊張感がない。わざわざ足を運んでくれたお客さんは「いまいちだなぁ」と思ってもなんとか褒めてくれる言葉を探してくれる人が多いし、そもそも好意的なモチベーションで来てくれる。そうでないたまたま入ってくれた人でも本人を目の前にしたらわざわざネガティブなことを言わないことがほとんど。何も言わずにすーっと会場から抜けるくらい。なかなかシビアな評価は受けられないのだ。
「ネムルバカ」という漫画で出てきた「駄サイクル」という言葉がしっくりくる(知らない方は「駄サイクル」でググれば一発で出てくる。ネット上でそこそこ出回っている画像)。趣味でやってるだけだから、と自分で意識している分にはこれが正解。でもこれで飯を食っていくとか、そこまでいかなくても技術なり面白さなりを向上させようというのならこれほど邪魔になるものはない。上手くならなくても面白くなくても人は褒めてくれて欲求は満たされる。アーティスト面できる。SNSなどで自分より知名度ある人に擦り寄ってうわべの技術・技法を真似してそれっぽく見せることができる。自分にとって何が面白いものなのか、それをどうすれば見せることができるのか考えることもせず。
以前、「写真新世紀」開催中のイベントであるポートフォリオレビューは良かった。持っていった写真を話にならないくらいの勢いでダメ出しされたが、その後どう考えていくべきかのアドバイスも貰えた。それなりに心にダメージも食らうが、それ以上にやってやったる感が湧き上がる。しかしこれは年に一回だけだ。その他にもレビューイベントはあるのだけど、やはりそんなに数多くない。(ちなみにこの写真新世紀のポートフォリオレビューは一流のキュレーターや写真家からのレビューを受けられるのだが、毎年席は埋まらないみたいだ。身の程を知るというのはそれほど怖いということなのか、単に興味ない人が多いのか。)
そこでコンテストという場所だ。自分のことを知らない第三者に評価してもらい自分の身の程を知る。もしそこで何らか認められたら、少なくとも自分の他にも自分の写真を面白いと思ってくれる人がいるとわかる。
もちろんコンテストが絶対的なものではない。選者の主観が思いっきり入るし、運要素もある。コンテストの趣旨と自分の写真が合ってなければ完成度や面白さとは関係なく入選の可能性は狭まる。
そして毎月どこかしらでコンテストの募集はある。大きな規模のものもあるし、小さなものもある。同じコンテストに参加した他の人の写真(入選作)も見ることができる。自分の写真の立場を知るのにとてもちょうどいいところだ。ついでに入選するとちょっとしたお金も貰える!(コンテスト規模によってはちょっとしたどころではない)
今後もコンテストを目標に撮ることはない。が、撮った写真をノリが合いそうなコンテストに送ることは続けると思う。今の草野球の場から、更に次を見ることができそうな場で入選することを目指していく。
笠井爾示写真展「トーキョーダイアリー」を見て、「Tokyo Dance」との対比
2017年に「東京の恋人」が発行されたとき、「「Tokyo Dance」と対になるような部分がある」と聞いた覚えがある。何かのトークイベントの時だ。しかし2019年に出た「トーキョーダイアリー」を見て、こちらの方が更に対になる存在なのではないかと思った。東京アートギャラリーで行われた展示内容を見て更にその思いを深めた。
「東京の恋人」も「トーキョーダイアリー」も多くの女性モデルが登場する。
念のために二つの写真集それぞれで、どの程度女性モデルが主題になっている写真が載っているのかカウントしてみた。
「東京の恋人」 380点中331点 「トーキョーダイアリー」380点中274点
「東京の恋人」は約87%もの写真が女性モデルを主題としたものに対して、「トーキョーダイアリー」は約72%になる。(いや、それでも多いのだけど。正直数えてみるまでは、もうちょっと街のスナップが多いと思っていた。)
「トーキョーダイアリー」の方は東京という街を撮った写真が多く差し入れられ、より日常からの地続き感がある。日常と女性の撮影の境目がより曖昧になってくる感覚。
「トーキョーダイアリー」の個展になるとその感覚はより強まってくる。東京アートギャラリーでの個展はこの写真集の中から街の写真を中心に構成された展示。笠井さんは子供時代〜高校くらいまでをドイツで過ごしたらしいけど、基本的には東京の人だ。2017年以降(「東京の恋人」以降)の東京の変化を撮り続けている記録のような写真だ。変にドラマチックな撮り方はしていない。
初写真集でもある「Tokyo Dance」は東京の夜の中に飛び込み彷徨い、光と人の渦の中を揉まれながら撮っていたような印象を受けた。正直言うと、笠井さんの写真集でいまだに一番好きな写真集だ。この写真集はもっとドラマチックな印象を受ける。90年代末期のクラブシーンという分かりやすく派手な被写体を中心に、夜の刹那的な楽しさと寂しさを抱えてそうな人たちを撮っている。
対して「トーキョーダイアリー」での街の写真は昼の写真が多い。20年以上経ち、作者のライフスタイルが変わったのが大きな理由か。「Tokyo Dance」の撮影時はまだ写真家として固まってなかった頃なのかもしれない(撮影当時20代半ば〜後半くらい?)。
「夜の東京」と「日常の東京」。写るモチーフが一緒で状況が異なるようなところが「対になっている」と感じたところかもしれない。
あらためて連続で写真集を見てみると、女性モデルに対しての距離感が変わっているように見える。同じ物理的な距離であっても「Tokyo Dance」は「飛び込んでいる」感が強い。「トーキョーダイアリー」はどこか距離を保っている。でも「トーキョーダイアリー」の方が撮る側の我の強さを感じる。「Tokyo Dance」は“寄り添っているor飛び込んでいる”が「トーキョーダイアリー」は“観察している”感じというか。それがどこから感じるものなのかはまだちょっと明確になっていない。荒木経惟の「原色の街」で見たような撮る側の冷静な怖さみたいなものを感じる。そう言うとなにか聞こえは悪い感じがするけど、私は「東京の恋人」よりもこの「トーキョーダイアリー」の方が好きだ。