「写真の爺さん」の話

「なんだ、これはお前の嫁か?」

 

これが写真の爺さんから投げかけられた第一声だった。

今から13年くらい前、当時住んでいた自宅近くにいわゆる”写真館”があった。七五三や家族写真などを撮るような昔ながらのアレである。

その頃私はハッセルブラッドを手に入れたばかりで120フィルムでの撮影にハマりかけていた。少しでも安く現像・プリントしてくれる店を探していたが、そういった店は都内に多く交通費も考えるとたいして安くならなかった。そこで近所のこの写真館に目を付けた。もしかしたらフィルム現像やってくれるんじゃないかと思って。

「あまり受け付けてないけど、やれないことはないですよ」くらいな感じで受け付けてもらった気がする(記憶あやふや)。10年前と言えばもう既にデジカメがスタンダードでフィルムが「激減している」と言われてから更に何年も経っている頃。個人店で受け付けしなくなっていても不思議ではない。ここではフィルム現像をやってくれるところに取り次いでくれる感じだった。安いわけじゃないけど高くもない。歩いて行けるところで済ませられるならそれに越したことはない。そんな感じで何度かフィルム現像を出していた。

そんな感じで月に2度くらいフィルムを出して、何回目かの受け取りに行った時に言われたのが冒頭の言葉だ。

いつも店内にいた店主らしき人ではなくて明らかにお爺ちゃん。もしかしたら店主の父親なのかもしれない。その時に現像に出していたのはモノクロフィルムで、写っていたのは当時よく撮っていたモデルさんのヌード写真。カラーと違いフィルムの段階である程度写っているものは分かる。

それにしたって随分不躾な言葉を投げかけられたものだ。ぱっと見70代後半くらいに見えるし、この年代はしょうがないのか。まぁ穏便に返そう。

「いやー、残念ながら嫁はないんですよ」

「なんだ、嫁がいてもおかしくねぇ歳じゃねぇのか」

いや、不躾だな、この爺さん。なんだこの野郎。

「いや~、まぁそうなんですけどね」

老人には優しくしないとな。

 

フィルムをまじまじと見た後に予想外の言葉を言われた。

「このくらい撮れるんだったら、フィルム現像からプリントまで自分でやれ。うちの使っていいから」

爺さんへの弟子入りが決まった瞬間だった。この後約半年間、週に1度未現像のフィルムを持参して通うことになる。

 

この写真館の中には現像機も引き伸ばし機もあった。モノクロだけではなくカラーの現像も出来た。ただほとんど使われていないだけだった。前述したようにデジタルが標準になって久しい時期。キヤノンからは5D Mark IIIが出ていたくらいの時期だ。

フィルム現像のための現像液調合、温度管理、現像タンクへフィルムを入れて攪拌、引き伸ばし機の使い方など一通り習った。モノクロよりカラーの方がある意味簡単だった。カラーは温度管理などがモノクロより格段にシビアなため、現像が機械化されていたためだ。

 

作業中暗室の中で爺さんはひたすら話し続ける。爺さん曰く、

・写真の技術は海軍で習った。戦闘機の設計のため(?)写真を使っていて、シビアな技術が必要だった。

・日本で最初にカラー写真をやったのは俺だ。(最初期にやった、という意味だと思う)

富士フイルムの技術者連中が俺にアドバイスを求めによくやってきた

土門拳と一緒によく作業した。あの人は暗室によく酒を持ち込んでいた。

 

約半年間爺さんのところに週1で通っていたが、上記の話は各5回は聞いた。

写真以外の話も色々と聞いた。

・俺は3人目の妾の子だった。父親とはほとんど話をしたことがない。

・若い頃はよく憲兵と喧嘩した。〇〇駅のホームに叩き落してやった。

などなど。話を総合すると、爺さんはいわゆる”地元の名士”の愛人の子で、地元権力者の子だということをいいことに地元で問題起こしても揉み消してもらったり、徴兵されても前線には送られずに後方部隊配備だったということだ。戦争時に20歳前後ってことか?そうなると10年前時点で若くても80歳は余裕で超えていることになる。もちろんこのプライベートの話も各5回は確実に聞かされている。

 

爺さんの家に招かれているうちに昼食なども一緒にとるようになる。そうなるとご家庭内の爺さんのポジションもだんだんと分かってくる。

なんというか、爺さんは家庭内でまあまあ疎まれている。前述したように年寄り特有の「同じ話を何度もする」状態である。また年寄り特有の声のでかさもある。もちろん孫が遊んでいるゲームなど理解の外だ。そんな爺さんにくっついて昼食をいただくのもなんか居心地悪いなと思っていたのだが、ご家族からの扱いは悪くなかった。好みの料理などを聞かれて答えると次週には用意されたりもした。そりゃそうだ、家にいるとずっと喋ってる面倒くさい爺さんの相手をしてくれる外の人だ。俺が5回聞いている昔話は、ご家族が50回以上聞いてきた昔話なのだ。

 

そんな微妙な空気の中でのマンツーマン現像教室も終わる時期がきた。

・・・いや、そうじゃない。爺さんは元気だった。私が引っ越すことになったのがきっかけだ。

同じ市内ではあったものの、少し距離が出来てしまい行かなくなってしまった。数年後、写真館もなくなって更地になっていた。

私はあれ以来自分でフィルム現像することも、手焼きプリントすることもなくなった。機材はいくつか手元に残っているがもう使い方も忘れてる。

数年後、爺さんをたまたま駅近くの書店で見かけたことはあったが声はかけてない。そこからもう8年くらいは経っているかと思う。おそらくもう存命はしてないと思う(していたらもう100歳近い)。

 

自分の中に何か残ったかと言われたら、自信をもって言えるものはない。

ただ物心ついた時には祖父母がいなかった私にとって、家庭内に老人が入っている生活を間近で感じられたのは新鮮だった。生まれが”金持ちのやんちゃもの”だった爺さんだったからああだったのか、年を取るというのはああいうものなの。とにかくあの爺さんのことは10年くらい経った今でも細かいエピソードを思い出せる。

厄介な年寄りにはなりたくない気持ちがあるが、若い世代に何らかの傷跡を残せるキャラになりたいと思う。