旅ってなんだろうを見つける旅
「頻繁に旅行をしてください」
これは先日人生で初めて行った占い師に言われた言葉だ。
立派な中年になってしまった私だが、いままで占いというものをやってもらったことがない。単純に興味がなかったし、信じてもいなかった。
だが今年になって色々と人生に変化があって、これからどうやって生きていこうか考えを巡らせる年になった。なってしまった。
こうなると自分でも色々と変化していかないといけない、というほど大げさな話ではないのだが今まで気にも留めなかったことに目がいくようになる。占いもその一環で行ったようなものだ。
占い師曰く、「ひとところにいると、悪い意味で安定してしまうきらいがある。だから頻繁に旅行して頭を柔軟にしていく必要がある」とのこと。
なるほど。コールドリーディングの一種のような気もするが、心当たりがないわけでもない。というか、中年独身男性なんてこのような傾向にある人が多いだろう。しかしそんなことにケチをつけるより、そのことを気付かせてくれたことに感謝しよう。
確かに私は旅行を趣味としていないし、あまり出る機会もない。1年半前に書いた記事は旅といえば旅であろう。が、頻度としてはかなり低い。
で、旅である。
私は本当に旅下手である。目的がないとどこかに行くことをしない。富山の時がかなり例外だった。
今回行ったのは大阪。新幹線で行けば3時間もあれば行けるところ。
私にとって旅というと夜行バスである。大学の頃スキーにハマっていた時によく乗っていたからか沢木耕太郎の「深夜特急」を読んだからか。ともかく夜行バスが好きだ。
バスターミナルに集まる乗客も空港などのそれと違ってどこかテンションが低い。ほとんどの人が黙っている。深夜2時くらいの中途半端な時間にサービスエリアに止まり目が覚め、ボーっとした頭を外の冷気で覚醒させる瞬間などとても良い。朝5時過ぎに到着し、周りに空いている店もろくにない状態で放り出されるのも味わい深い。
私にとって旅というのは、なんなら到着時までにほとんど味わってしまっているのかもしれない。
今回の大阪は旅と言いつつ目的が決まっていた。昼間に大阪のモデルさん撮影、夜に写真仲間のがそと路上撮影。
これって旅なのか?仕事などでの出張と何か違うのか?その人が大阪にいるからというだけであって、大阪でないとできないということでもない気がする。梅田駅に着いて、付近のカフェでそんなことを考える。
まぁいいや。旅の定義は人それぞれ(多分)。今後色々なところに行って自分なりの定義を見つけよう。ひとまずは午後からの撮影のことを考える。
群馬の田畑広がる田舎で生まれ育った私にとって、東京と大阪は大差ない。どっちも大都会だ。新宿も梅田も似た感じ。カフェの窓から通勤している人たちを見ながら、これからの人生を考える。
あぁ、これは旅かもしれない。普段の環境と離れたところで内なる課題と向き合ってる感。場所を変えたからといって考える頭が変わるわけではないのだけど、何か外部刺激が加わっているかもしれない。何一つ確証はないけどそんな気持ちにもなってくる。錯覚かもしれないが、それも旅か?いや、別に自分探しすることが旅じゃないぞ?
午後から夜にかけての撮影はつつがなく。大阪のモデルさんと撮影しながら、これからやろうとしている仕事に関しても意見交換できた。また、夜の路上撮影の前に予定にはなかったモデルさんと合流して話をすることができて、今度ちょっとした仕事をすることにもなった。なんか仕事の出張みたい。
翌日朝にはすぐに帰宅。あれ、これ旅か?駄目だ、分からん。
2024年は色々なところに行って「俺にとって何をもって旅とするんだろう」を探すことにする。
多くの人が「旅写真」を撮っているけど、自身の旅写真スタイルが見つかればいいなと思う。
「写真の爺さん」の話
「なんだ、これはお前の嫁か?」
これが写真の爺さんから投げかけられた第一声だった。
今から13年くらい前、当時住んでいた自宅近くにいわゆる”写真館”があった。七五三や家族写真などを撮るような昔ながらのアレである。
その頃私はハッセルブラッドを手に入れたばかりで120フィルムでの撮影にハマりかけていた。少しでも安く現像・プリントしてくれる店を探していたが、そういった店は都内に多く交通費も考えるとたいして安くならなかった。そこで近所のこの写真館に目を付けた。もしかしたらフィルム現像やってくれるんじゃないかと思って。
「あまり受け付けてないけど、やれないことはないですよ」くらいな感じで受け付けてもらった気がする(記憶あやふや)。10年前と言えばもう既にデジカメがスタンダードでフィルムが「激減している」と言われてから更に何年も経っている頃。個人店で受け付けしなくなっていても不思議ではない。ここではフィルム現像をやってくれるところに取り次いでくれる感じだった。安いわけじゃないけど高くもない。歩いて行けるところで済ませられるならそれに越したことはない。そんな感じで何度かフィルム現像を出していた。
そんな感じで月に2度くらいフィルムを出して、何回目かの受け取りに行った時に言われたのが冒頭の言葉だ。
いつも店内にいた店主らしき人ではなくて明らかにお爺ちゃん。もしかしたら店主の父親なのかもしれない。その時に現像に出していたのはモノクロフィルムで、写っていたのは当時よく撮っていたモデルさんのヌード写真。カラーと違いフィルムの段階である程度写っているものは分かる。
それにしたって随分不躾な言葉を投げかけられたものだ。ぱっと見70代後半くらいに見えるし、この年代はしょうがないのか。まぁ穏便に返そう。
「いやー、残念ながら嫁はないんですよ」
「なんだ、嫁がいてもおかしくねぇ歳じゃねぇのか」
いや、不躾だな、この爺さん。なんだこの野郎。
「いや~、まぁそうなんですけどね」
老人には優しくしないとな。
フィルムをまじまじと見た後に予想外の言葉を言われた。
「このくらい撮れるんだったら、フィルム現像からプリントまで自分でやれ。うちの使っていいから」
爺さんへの弟子入りが決まった瞬間だった。この後約半年間、週に1度未現像のフィルムを持参して通うことになる。
この写真館の中には現像機も引き伸ばし機もあった。モノクロだけではなくカラーの現像も出来た。ただほとんど使われていないだけだった。前述したようにデジタルが標準になって久しい時期。キヤノンからは5D Mark IIIが出ていたくらいの時期だ。
フィルム現像のための現像液調合、温度管理、現像タンクへフィルムを入れて攪拌、引き伸ばし機の使い方など一通り習った。モノクロよりカラーの方がある意味簡単だった。カラーは温度管理などがモノクロより格段にシビアなため、現像が機械化されていたためだ。
作業中暗室の中で爺さんはひたすら話し続ける。爺さん曰く、
・写真の技術は海軍で習った。戦闘機の設計のため(?)写真を使っていて、シビアな技術が必要だった。
・日本で最初にカラー写真をやったのは俺だ。(最初期にやった、という意味だと思う)
・富士フイルムの技術者連中が俺にアドバイスを求めによくやってきた
・土門拳と一緒によく作業した。あの人は暗室によく酒を持ち込んでいた。
約半年間爺さんのところに週1で通っていたが、上記の話は各5回は聞いた。
写真以外の話も色々と聞いた。
・俺は3人目の妾の子だった。父親とはほとんど話をしたことがない。
・若い頃はよく憲兵と喧嘩した。〇〇駅のホームに叩き落してやった。
などなど。話を総合すると、爺さんはいわゆる”地元の名士”の愛人の子で、地元権力者の子だということをいいことに地元で問題起こしても揉み消してもらったり、徴兵されても前線には送られずに後方部隊配備だったということだ。戦争時に20歳前後ってことか?そうなると10年前時点で若くても80歳は余裕で超えていることになる。もちろんこのプライベートの話も各5回は確実に聞かされている。
爺さんの家に招かれているうちに昼食なども一緒にとるようになる。そうなるとご家庭内の爺さんのポジションもだんだんと分かってくる。
なんというか、爺さんは家庭内でまあまあ疎まれている。前述したように年寄り特有の「同じ話を何度もする」状態である。また年寄り特有の声のでかさもある。もちろん孫が遊んでいるゲームなど理解の外だ。そんな爺さんにくっついて昼食をいただくのもなんか居心地悪いなと思っていたのだが、ご家族からの扱いは悪くなかった。好みの料理などを聞かれて答えると次週には用意されたりもした。そりゃそうだ、家にいるとずっと喋ってる面倒くさい爺さんの相手をしてくれる外の人だ。俺が5回聞いている昔話は、ご家族が50回以上聞いてきた昔話なのだ。
そんな微妙な空気の中でのマンツーマン現像教室も終わる時期がきた。
・・・いや、そうじゃない。爺さんは元気だった。私が引っ越すことになったのがきっかけだ。
同じ市内ではあったものの、少し距離が出来てしまい行かなくなってしまった。数年後、写真館もなくなって更地になっていた。
私はあれ以来自分でフィルム現像することも、手焼きプリントすることもなくなった。機材はいくつか手元に残っているがもう使い方も忘れてる。
数年後、爺さんをたまたま駅近くの書店で見かけたことはあったが声はかけてない。そこからもう8年くらいは経っているかと思う。おそらくもう存命はしてないと思う(していたらもう100歳近い)。
自分の中に何か残ったかと言われたら、自信をもって言えるものはない。
ただ物心ついた時には祖父母がいなかった私にとって、家庭内に老人が入っている生活を間近で感じられたのは新鮮だった。生まれが”金持ちのやんちゃもの”だった爺さんだったからああだったのか、年を取るというのはああいうものなの。とにかくあの爺さんのことは10年くらい経った今でも細かいエピソードを思い出せる。
厄介な年寄りにはなりたくない気持ちがあるが、若い世代に何らかの傷跡を残せるキャラになりたいと思う。
富山の海に見た原風景
「俺も行こうかな。富山」
そう言ったのは3月の頭くらい。もしかしたらまだ2月だったかもしれない。友人の写真家、石本一人旅が仕事で富山に写真を撮りに行くと聞いてのことだ。
旅行が趣味、ということはない。別に嫌いなわけではないが積極的に旅行を計画してきたことはない。友人や恋人などと旅行しようという話になってそれに乗っかる程度のことはもちろんあるけども。
今まで一人で関西や中国地方、北海道など行ったこともあるが、それらは全て現地で他の目的があったからだ。だいたいの場合はそこに住んでいる方と撮影の約束があってのこと。ついでに観光はするけど、主目的がそこではない。
そんな私でも昨今の新型コロナ状況下で色々と思うことはあった。月並みな言い方になってしまうが、「いつか行こうと思っていても、いつでも行けるとは限らないんだな」ということだ。
私ももうどこに出しても恥ずかしいくらいの中年になってしまった。20代の頃なら「いつか行こう」と言ってもいいかもしれないが、残された時間と体力は有限だと考えだす時期だ。私は普段から「126歳まで生きる」と言っているが、それが実現できたとしてもあちこちに行く体力というのはずっと持てるものではない。北陸3県の中で唯一行ったことのない富山。行ってみるタイミングかもしれないと思ったのだ。
石本は現地で仕事があるので、だいたいの時間は別行動となる。やりたいことをある程度明確化しておかないと旅行初心者の私は何も出来ずに終わるだろう。最初は漠然と「富山の街並みでも撮り歩くか」と思っていたのだがもっとピンポイントに撮影ターゲットを絞ることにした。
「海だな。日本海を見て、撮りたい。」
3月下旬ということで「冬の日本海」というほどでもないが、太平洋と違う波の荒い海を撮りたかった。また群馬育ちの私にとって海というのは特別なものがある。いまだに海というだけで少しはしゃぐ。電車に乗ってて海が見えると「海だ」と口に出してしまうくらいだ。ついでに安くて美味しい寿司が食べられたらなおいい。
うん、「海を見て、寿司を食う」。やることが2つもあれば大丈夫。あとは道中含めて楽しめるだろう。
富山駅近辺で石本と解散して一人海を目指す。目指すのは岩瀬浜海水浴場。
Googleマップ上では7.5㎞。実際に歩くのは8kmというところか?写真を撮りながら歩いたら2時間半くらいだろうか。ちょうどいい。
富山駅周辺というのは典型的な地方都市という感じがした。群馬もそうなのだが、駅周辺というのはそれほど栄えていない。車社会で大きな自動車道沿いの方が駅前よりも店舗が多いというのはよくある。
いわゆる”夜の繁華街”みたいなところも小さいエリアみたいだ。長野に住んでいた時もそうだったが、北陸や甲信越地方というのは夜の商売をするには厳しい場所なのかもしれない。健全といえば健全、活気がないといえば活気がない。
海が近づくにつれて”錆”や”塗装の剥げ”が目立ってくる。これはやはり海風の影響なのだろうか。侘しさみたいなものが強調される。
海から4㎞くらいの場所にある化学工場の外壁に存在する謎の窓枠(?)。用途不明。
やはり車が主たる移動手段なのだろう。道を歩く人や自転車の人はかなり少ない。こういうところも私の地元と被る。私の地元はこんなに建物ないけど。
寒々しい写真に見えるけど実際少し寒かった。3月終わり頃ということで油断していたけど、一番気温が高い時間帯でも10℃くらい。駅近くで薄手の上着を買った。あまり似あってないが致し方ない。
歩き続けること約2時間。路面電車の線路沿いにある道を歩いてきたのだが終点に着いた。10年前くらいのノリの萌えキャラが出迎えてくれる。なぜかほっとした。歩き疲れていたからだろうか。
もう海の近く。”岩瀬浜海水浴場”とのことだが、3月末のこの時期はただただ寂しい雰囲気だ。本当に7月には海水浴客で賑わうのだろうか?コロナ禍ということを差し引いてもイメージが湧かない。地元の人だけが訪れるようなスポットなのか?
林を抜け、海を眼前にする。
出た。
「ああ、俺はこれを見に来たんだよな」という海が現れた。
ただそこにある海。
わざわざ来た人を出迎えるでもなく、見てほしいと主張しているわけでもなく、ただそこにある海。
海のない群馬で育った私だが、妙に親近感を覚える。”荒涼とした”ともいえるシンプルな光景。私が育った地域は海もなければ山もない。ただ平野(田畑)が続くところだった。それに通ずるものがある。海か土かの違い。
周辺を10分ほど撮ったところで
「よし、満足した」
と独り言。2時間以上かけて歩いてきて10分の滞在。だけど確実に満足感があった。満足した途端に寒さが増した。時計を見れば17時を過ぎてる。引き返すにはいい頃合いだ。
こういったシンプルな写真は好きだな、と思う。私は情報量の多いごちゃごちゃした写真か極端にシンプルな写真かどちらかが好きみたいだ。極端に振った方がセンスが問われないから、とかあるのかもしれない。分かりやすいというか。
「また富山に来よう!」という旅ではなかったが、何かを確認できたような気持になれた旅ではあった。意義ある小旅行。
こんな感じでまたどこか他のところにも行きたい。
--------以下、おまけ。余談。余計な後日談。
現地に着いて前もって目を付けていたカフェに向かう石本と私
石本と別行動になった後に行った回転寿司屋。美味しかったけど、それなりに料金も取られたのであまりお得感はなかった。「この値段出せば別に東京や神奈川でも食べられるよね、これ」みたいな。観光客向けのお店だったのかもしれない。
富山駅で「北陸唯一の蒸留所」と銘打ったウイスキーで作られたハイボール缶を購入。バッグに入れておいたら中で破裂。カメラ2台をハイボール漬けにしてくれた。先日買ったばかりの富士フイルムX20はファインダー不良になった。
写真展メモ:西野壮平写真展「線をなぞる "tracing lines"」
みんな大好き(?)西野壮平
どうやら2月6日に情熱大陸で西野さんをとりあげた番組が放送されるらしく、放送後は混むのではないかと思い前日の2月5日に行ってきた
キヤノンギャラリーSの入り口を入って最初に見えるのは写真集「WATERLINE」からポー川のフォトコラージュとスナップ
これは写真集を持っているし、何度か他のギャラリーでも観たことあるもの。やはりオリジナルを大きなサイズで観るのはいい。イタリア北部にあるという川付近に住む人たちの生活が見える気になる。
ここを過ぎると新作や色々なプロジェクトの作品が出てくる。
”山”と”水”を主題に持ってきている作品が数多くあるが、メインビジュアルにもなっている”富士山”よりも奥にある伊豆の海の波を主題にした作品がとても印象に残った。
葛飾北斎の富嶽三十六景を思い起こさせるような波の表現。静けさと激しさが同居するような感覚を覚えるのはフォトコラージュだからこそ表現できる特有のものがあるかもしれない。新型コロナ渦で海を見つめながら自分の心境と向かい合いながら撮ったというこの作品。海に浮かぶ漁に使う網の影を繋いだ「お経のような」作品と共に、旅を軸にしていた他の作品とは一線を画すものだった。
エベレストを主題にした作品は山そのものよりも、頂上を目指す人たちとそれを支えるシェルパの生活を主題にしていた。上を目指していく人たちの”線”をなぞったものだということだろう。肝心のエベレストは奥の方にちょこっと写っているだけなのが面白い。
その他にも先に書いた富士山や流氷を主題にしたフォトコラージュなどが展示されている。
なぜ私は西野壮平さんの写真が好きなのか?
以前このブログで書いたように、フォトコラージュという手法を知ったきっかけはデビッド・ホックニーの写真だ。ホックニーの写真を初めて観たのが2010年か2011年。その後、2015年くらいに西野さんの「Tokyo」を写真展で観た。たしか今はもうない六本木のIMAギャラリー(2017年に天王洲へ移転)。雑誌でなんとなく存在は知っていたのだけど、オリジナルを生で目にして衝撃を受けた。Tokyo全体を俯瞰するような目線なのだけど、局所的には大きさバランスを無視した要素を入れてくる。だけど全体的にはなんかバランスが取れてる。ずっと飽きずに観ていられる。きっと私はこういう情報がぎっちり詰まったものが好きなのだ。
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私もホックニーや西野さんの影響からフォトコラージュを作っているが、思想・完成度全てにおいてとても遠いところにあると感じる(いや当たり前の話だし、アマチュアが何を言ってるんだという話なんだけど、ここは一つ同じ土俵に立ってる風を装わせてほしい)。私は私なりの主題・意図で今後もこの手法で撮っていきたい。
※ちなみにこの写真展は撮影OK、SNSOKということで撮影した写真をこのブログに載せた。
動画とフラッシュ撮影は駄目だそうです
PHOTOJAM TOKYO 2021の個人的な反省
昨年12月12日から今年の1月16日まで浅草の813Galleryで開催されたPHOTOJAM TOKYO 2021に参加させていただいた。10人の絵描きと10人の写真家が参加し、二人一組を作って「絵描きの絵が一枚、写真家の写真が一枚、写真家の写真の上に絵描きがライブドローイングするのを一枚」という3枚x10組の作品が集められた展示。その展示に写真家として参加させていただいた。
ゴトウヒデオさん
https://www.instagram.com/hideo_goto_art/
ゴトウヒデオ商店 ゲットースポーツ ( hideo_goto_art )のオリジナルアイテム・グッズ通販 ∞ SUZURI(スズリ)
今回の展示では色々と反省させられる点があったので、忘れないためにもここで振り返りたいと思う。
反省点その1:「作品を”売る”という意識が薄かった」
搬入直前に「作品のタイトルと値段を決めて送ってください」と連絡があった。タイトルはともかく値段のことは全く考えていなかった。今まで私が行ってきた個展やグループ展などでも展示写真を売るということは考えておらず、問い合わせがあってから初めて対応するような形だった。「写真を見てもらえればそれでいい」という感覚になっている。
これに関しては絵を描く人と写真を撮る人とで意識が異なっている気がしている。今まで私が観てきた展示では絵画展ではほぼ毎回絵に対して値段が付いていたと思う。有名無名問わず。それに対して写真家の写真展では値段が付いていたり付いていなかったり。同じ写真家でも写真展によって異なっていたように思う。売る気がある展示では写真が奇麗に額装されている。しかしきちんと額装された展示だけとは限らない。有名な写真家の写真展であってもものすごくラフにプリントがむき出しで壁にピン留めされていることもあった。ロバート・フランクの写真展でも新聞紙で使うような紙にプリントされたものがラフに展示されていた。もちろんそれぞれの展示でそれぞれの意図があって、それをここで考察・解説していくのは話が逸れてしまうので割愛する。
ともかく、その感覚があって私は今回の展示は「今見てもらいたい写真を見てもらえればいい」という気持ちで出展していた。しかし主催とその辺に関しての意識の違い・温度差があった。形として分かりやすく出たのが前述にもあった展示方法の違い。私は木製パネルに写真を張り付けた形で展示した。インクジェットで印刷した写真はむき出しの状態だと酸化して変色しやすい。ましてや私のプリンタは染料インクを使用している。顔料に比べて変色しやすい。もちろん額装やアルバムのフィルムに入れておけばかなりの年数変色せず持つのだが、約1か月の展示期間むき出し状態である。もし購入された場合、コンディションが劣化した状態で買ってもらうことになる。2週目に慌ててコーティング用のスプレーを吹き付けたが準備不足甚だしい。本来であれば写真は最初から額装し、ライブドローイングされたものは出来上がった時点ですぐに額装すべきだった。幸か不幸か展示期間中に写真が売れることはなかったのだが、今後ちゃんと向き合わないといけない問題。
反省点その2:在廊の仕方
浅草の813ギャラリーは割と小規模のギャラリーだ。展示スペースには10人も入れば結構な密度になり、椅子やテーブルでくつろげる余裕は少ない。ギャラリー入り口近くに椅子・ベンチとストーブを置いて歓談できるようにしていたのだが、ここの使い方を確認しておくべきだった。
時間帯によってはお客様が少なく、その間に在廊している出展者がこのスペースでくつろいでいた。プロアマ問わず写真展やその他展示を観に行ったことがある人で感じたことも多いだろうが、出展者及びその友人らしき人達で一角に集まって駄弁っているのは本当に入りづらい。ゴールデン街の小さな飲み屋みたいな”常連以外寄りにくい”状態になってしまう。せっかくSNSなどで展示情報を見て来てくれた方も入り口付近で入ろうかどうか迷ってしまう。私自身こういう状況が本当に嫌いだったはずなのに、久しぶりのグループ展だったからかすっかり感覚が鈍っていた。
他にも反省点はあるのだけど、大きなところで言えば上記2点。
ある程度以上の規模のグループ展に参加すること自体が久しぶりだったこともあって、だいぶ感覚が鈍っていた。観に来てくれるお客様のことを全然考えてなかった。今後こういう機会があることを考えて、このブログに書いておく。参加することになったらこの記事・記録を思いだして読み返すことにしよう。
遺影を撮るということ
「遺影を撮ろう」、とまつりさんにもちかけたのが昨年末。
「遺影を撮る」というのは写真を勉強したことがある人には割とメジャーなテーマみたいだ。私は10年ほど前に行っていたワークショップで課題として出されたし、私の他にも遺影を撮っているという人の話を何度か耳にしたことがある。
課題の意図としては「人を撮るということに正面から向かい合うこと」みたいなことだと認識している。私が10年前に出された課題は「本人に遺影を撮るということを伝えたうえで白バックでストレートに撮る」というものだった。
10年前というのはSNS上でカメラマンを名乗る人がかなり多くなっていた時期だった。mixiやTwitterなどでモデルを募集し、SNS上で写真を発表する人が沢山いた。デジタルカメラが新製品ごとの機能・性能向上がまだ大きく、カメラ市場も(下降傾向にあったとはいえ)今よりは盛り上がっていたのも関係していたと思う。私もその自称カメラマン・自称写真家の中の一人だった。というか今もそうだ。
この時期にSNSを通じて写真を撮っていた人には身に覚えがあると思うが、この頃というのは「ポートレイト」という言葉が軽くなってきた時期だ。
性能が良くなってきたカメラを構えて、女の子の写真をそれっぽく撮れば「ポートレイト」。なんなら「ポトレ」などと略する(「アニメーション」と「アニメ」が別な意味を持ったのと同じ現象なのかもしれない)。このことに違和感を抱きつつも、その違和感を言葉にできていないのが当時の私だった。そんな時に「人物写真に特化したワークショップ」というものに通い、最初の頃に出された課題が「遺影を撮る」だった。
白バックでシンプルに撮る、ということは背景も演出もないということだ。その中で被写体の人柄や思いを伝える(伝わっているように見せる)ということだ。当時選んだ被写体は大学時代の友人だった。芸能人でも有名人でもないので見ている人に前情報はほとんどない。
当時の私がしたことは「撮影前にインタビューをする」ことだった。プロの取材現場と違い、時間だけはたくさん撮れる。撮影前に1時間ほどインタビューをした。「来週死ぬとして自分の人生の満足度はどのくらいか」というような内容である。満足度を百点満点で表すと何点か?プラス要素は何で、マイナス要素は何か?残りの1週間で何をするか?それらのことを聞いてから、「来週自分の葬式に来てくれる人たちに向けた顔をしてほしい」とお願いした。
今回の撮影もほぼ同じことをした。面白かったのは、同じ質問をしたのに10年前に撮影した人とはまるで違う表情をしたことだ。当たり前と言えば当たり前なのだけど、人が違えば人生も違う。そうなれば(仮想)遺族に向き合う顔も変わってくる。
今回遺影をお願いしたまつりさんは普段はヌードモデルをメインに活動している。今回の撮影は「証明写真を撮った時以来の感じで落ち着かない」とのことだった。実際に表情もいつもと比べて固い。通常であれば「いい写真」と評価されない写真かもしれない。
言い訳になってしまうかもしれないが、私はこれはこれでいい写真だと思う。インタビューをした後だとこれこそが「今の彼女の遺影」なのだと思える。彼女とは来年1月に遺影のアップデートをしようと約束した。年に一度の遺影の更新で、表情がどう変わっていくか。そういうのも意義あるものになるのではないだろうか。
今回の撮影でまつりさんに言われた嬉しい一言があった
「ポートレイトって奥が深くて面白いものなんですね」
というものだ。そして残念なことは、その言葉は私が撮った写真を見てではなくて、私が所有する先人達の偉大な写真集を見て出てきた言葉だということだ。
230日以上ぶりのブログ更新になったのだけど、今年こそは更新頻度を上げたいと思う。
2021年の大みそかに友人である石本一人旅と飲みながら写真に関する数値目標を立てた。彼曰く、「アベさんは作品撮りとしての撮影回数が少なすぎる」とのこと。森山大道も「量を伴わない質はない」というようなことを言っている。今年は人物、スポーツ、街撮りなどを積極的に行い、明確な作品撮りに関してはなるべくブログに記録していこうかと思う。
十中八九、途中で尻すぼみになるかと思うが、どこまでちゃんとやれるか。撮影記録だけでなく、なるべく考えをアウトプットしていこうかと思う。
一月だし目標めいたことを言ってもいいだろう。
instax(チェキ)でもっと楽しく写真を撮るために
10年ぶりくらいに写真のワークショップみたいなものに参加した。
写真家の熊谷聖司さんを講師としたinsax(チェキ)を利用して、実験的に写真表現を探っていこうというもの。ゼミ、という名前になっているな。
このゼミは上期と下期(といっても各2回)に分かれて、上期が制作に関する講義・実習、下期はそれを活かした展示を行うことになっている。6月はちょっと忙しいこともあって私は上期だけを受講。
もちろんこういったセミナー・ゼミという形で教わったことなので、教わった内容をこの記事で書くことはしない。
ここまで書いたところで
「あれ?チェキに関して自分が実験していくプロセスをこのブログで書こうと思っていたのだけど、それを細かく書いたら結果的にゼミの内容を書いちゃうことになるな。どうする?」
と困ってしまった。
・・・ひとまず、撮った写真をアップする分には問題ないだろう
以前にも書いたように、写るものをあまり鮮明にせず(かといって不鮮明にし過ぎず)「記憶の中にある輪郭」みたいなものを表せないかとトライしている。以前の記事はデジタル一眼レフカメラを使っているが、instaxを用いるとなかなか面白い上にやりたいことに近いんじゃないかと思っている。
問題はコスト。これまた以前に書いたように一枚当たりそこそこのお金が飛んでいく。ジュース一本、とまではいかないまでも。熊谷さんは「うまくいかなくていいの。そこも楽しいんだから。フィルムが一枚無駄になるだけ」と言い放つが、根っからの貧乏性の私としてはやはり気が気ではない。
なるべく写りをコントロールできるように、どうやればどう写るのか把握したい。8割がたを制御して、偶然は残り2割くらいの感じでやっていきたい。
その為には結局トライ&エラーが必要になる。今は仕方ない。先行投資でお金を使っていこう。無駄にならないように記録をとりながら。