遺影を撮るということ

 

「遺影を撮ろう」、とまつりさんにもちかけたのが昨年末。

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「遺影を撮る」というのは写真を勉強したことがある人には割とメジャーなテーマみたいだ。私は10年ほど前に行っていたワークショップで課題として出されたし、私の他にも遺影を撮っているという人の話を何度か耳にしたことがある。

課題の意図としては「人を撮るということに正面から向かい合うこと」みたいなことだと認識している。私が10年前に出された課題は「本人に遺影を撮るということを伝えたうえで白バックでストレートに撮る」というものだった。

10年前というのはSNS上でカメラマンを名乗る人がかなり多くなっていた時期だった。mixiTwitterなどでモデルを募集し、SNS上で写真を発表する人が沢山いた。デジタルカメラが新製品ごとの機能・性能向上がまだ大きく、カメラ市場も(下降傾向にあったとはいえ)今よりは盛り上がっていたのも関係していたと思う。私もその自称カメラマン・自称写真家の中の一人だった。というか今もそうだ。

この時期にSNSを通じて写真を撮っていた人には身に覚えがあると思うが、この頃というのは「ポートレイト」という言葉が軽くなってきた時期だ。

性能が良くなってきたカメラを構えて、女の子の写真をそれっぽく撮れば「ポートレイト」。なんなら「ポトレ」などと略する(「アニメーション」と「アニメ」が別な意味を持ったのと同じ現象なのかもしれない)。このことに違和感を抱きつつも、その違和感を言葉にできていないのが当時の私だった。そんな時に「人物写真に特化したワークショップ」というものに通い、最初の頃に出された課題が「遺影を撮る」だった。

白バックでシンプルに撮る、ということは背景も演出もないということだ。その中で被写体の人柄や思いを伝える(伝わっているように見せる)ということだ。当時選んだ被写体は大学時代の友人だった。芸能人でも有名人でもないので見ている人に前情報はほとんどない。

当時の私がしたことは「撮影前にインタビューをする」ことだった。プロの取材現場と違い、時間だけはたくさん撮れる。撮影前に1時間ほどインタビューをした。「来週死ぬとして自分の人生の満足度はどのくらいか」というような内容である。満足度を百点満点で表すと何点か?プラス要素は何で、マイナス要素は何か?残りの1週間で何をするか?それらのことを聞いてから、「来週自分の葬式に来てくれる人たちに向けた顔をしてほしい」とお願いした。

 

今回の撮影もほぼ同じことをした。面白かったのは、同じ質問をしたのに10年前に撮影した人とはまるで違う表情をしたことだ。当たり前と言えば当たり前なのだけど、人が違えば人生も違う。そうなれば(仮想)遺族に向き合う顔も変わってくる。

今回遺影をお願いしたまつりさんは普段はヌードモデルをメインに活動している。今回の撮影は「証明写真を撮った時以来の感じで落ち着かない」とのことだった。実際に表情もいつもと比べて固い。通常であれば「いい写真」と評価されない写真かもしれない。

言い訳になってしまうかもしれないが、私はこれはこれでいい写真だと思う。インタビューをした後だとこれこそが「今の彼女の遺影」なのだと思える。彼女とは来年1月に遺影のアップデートをしようと約束した。年に一度の遺影の更新で、表情がどう変わっていくか。そういうのも意義あるものになるのではないだろうか。

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今回の撮影でまつりさんに言われた嬉しい一言があった

「ポートレイトって奥が深くて面白いものなんですね」

というものだ。そして残念なことは、その言葉は私が撮った写真を見てではなくて、私が所有する先人達の偉大な写真集を見て出てきた言葉だということだ。

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所有する写真集の一部

 

230日以上ぶりのブログ更新になったのだけど、今年こそは更新頻度を上げたいと思う。

2021年の大みそかに友人である石本一人旅と飲みながら写真に関する数値目標を立てた。彼曰く、「アベさんは作品撮りとしての撮影回数が少なすぎる」とのこと。森山大道も「量を伴わない質はない」というようなことを言っている。今年は人物、スポーツ、街撮りなどを積極的に行い、明確な作品撮りに関してはなるべくブログに記録していこうかと思う。

十中八九、途中で尻すぼみになるかと思うが、どこまでちゃんとやれるか。撮影記録だけでなく、なるべく考えをアウトプットしていこうかと思う。

一月だし目標めいたことを言ってもいいだろう。